When The GARO's Over

ガロが終わった後で…


[夢楽堂/九州在住]

 きっかけは、高校1年のとき(’82年頃)でした。時代的にはシンセ主流への移行期で、流行の音楽から生ギターの音がどんどん消えつつあり、そこそこギターが弾けるようになった一番楽しい頃の僕にとっては欲求不満のたまる日々でした。
生ギターの入っている曲ならCM曲でも何でも片っ端からコピーしていたある日、友人が「これ、結構かっこいいからコピーしてみて」と持ってきたのが「お母さんのもの」だというGAROのベスト盤のテープでした。
「コピーして」と頼まれたのは、1曲目の「たんぽぽ」でしたが、聴き始めたとたん、イントロでやられてしまいました。
A面の最後に入っていた「四つ葉のクローバー」のイントロを聴いたときには、興奮して何度も聴きなおしたのを覚えています。
アコギでロックができたらかっこいいのにと思っていた僕にとって、まさにGAROは理想のグループでした。

 残念ながらすでにレコードは廃盤で田舎では手に入らず、大学で東京に出てきてから中古盤屋を廻り、
GAROのアルバムを買い漁りました。3ヶ月くらい経った頃、トミーとマークがマーキーでソロライヴをやっているというのを聴き、最初にトミーの回のチケットを買いました。
用事で行けなかったその回がトミーの最後のライヴになりました。
ニュースを見た時のこともよく覚えています。
遅れてきたファンである僕は、最後まで追いつけませんでした。

 90年代に入り、J−Rock,J−Popという名で、60年代、70年代の音楽が発掘され、GAROも再評価されるようになりました。
ライヴでGAROのコピーをやると、僕よりずっと年上の人が「昔コピーしていたけど、どうしてもわからなかった。」とか、
年下の子が「それどうやって弾いているんですか?」と聞いてきます。
BSの番組でかまやつ氏が「20年早かった」と言っていましたが、それを実感する瞬間です。

 「4」以降の音楽性については、成長していく彼らに周囲がついて行けなかったのかな、という気がします。「ピクニック」を聴いたとき、なぜこの曲にこの歌詞なんだろうと思いましたが、「シングルファイル」のボーカル氏のライナーで謎が解けました。
それは常に変化しながら成長を繰り返すビートルズやニールヤングのようなミュージシャンに対して、存在していたジョージマーティンやベンキースのようなスタッフが、当時の彼らの周りにはいなかったことを証明しているのではないでしょうか。

 「ロックギタリストと言うのはアコギもエレキも鳴らせてこそだ」
――これはCharがインタヴューの中で言ったひとことです。
ニールヤング、スティーブンスティルス、エリッククラプトン、ジミーペイジ…、海外にはたくさんいますが、日本でこれが当てはまるのはCharとGAROのふたり、その3人だけだと僕は思っています。
GAROはまぎれもなくJ−Rockの先駆けであり、今でも僕にとっての教科書です。



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