このエッセイは、「GARO」という70年代初頭にミュージックシーンを駆け抜けたフォークロックバンドを軸に、私、ごまこと土屋が、その音楽、友情、恋愛と出会い、そして別れるまでを綴ったノンフィクションです。 |
written by ごま(Y. Tsuchiya) |
CONTENTS クリックするとその章にジャンプします バックが■のタイトルは「NEW UP DATE」です! |
PROLOGUE |
音楽との出会い |
BEATLESとの出会い |
ギターとの出会い |
H君との出会い |
GAROとの出会い |
「たんぽぽ」との出会い |
「暗い部屋」との出会い |
S君との出会い |
「LAMB(ラム)」との出会い |
拍手喝采との出会い |
S.Wさんとの出会い |
大切なものとの出会い PART-1 |
大切なものとの出会い PART-2 |
大切なものとの出会い PART-3 |
大切なものとの出会い PART-4 |
LAMBとの別れ PART-1 |
PROLOGUE |
GAROについて書いてみませんか?… Tomoko.Kさんからお誘いを受けた時、戸惑いながらもとても嬉しく思いました。 『何を書こう…?』 色々悩みました。 迷っているうちに、1999年5月2日の「第一回GAROオフ会」…。 素敵な方々と、素敵な出会いが待っていました。 その後、様々な人や事柄との「出会い」が私の人生の、そしてもちろんGAROとのキーワードであることに、ふと気付きました。 私たちは不思議な巡り合わせの中を漂いながら、様々な「出会い」を通して、様々な人生を歩んでいます。 最近では、こうしてGAROについて書いているのも、Tomokoさんを始めとする皆さんとの「出会い」があったからに他なりません。 この「出会い」を通して、私とGAROとの関わりを書いてみたいと思います。 少々長くなるかも知れませんが、お許し下さい。 お暇な方は、お付き合いくだされば幸いです。 なお、時間的事実関係など不自然な部分もあろうかと思いますが、何分にも当時を思い出しながら、断片的な記憶を頼りに書いておりますのでご容赦下さいませ。 (1999年5月7日) |
音楽との出会い |
物心が付く頃から音楽には興味があった(らしい)。 幼児の頃、家にあった電気蓄音機でレコードをかけてさえいれば、それがどんなジャンルの音楽であろうと機嫌が良かったと両親が話してくれた。 小学校の頃、音楽と給食(笑)の時間が一番好きだった。 歌う…、楽器(ハーモニカ・リコーダー・ピアニカなど)を演奏する…、鑑賞する…。そのどれもが、私にとって素晴らしい時間だった。 確か4年生頃だと記憶している。「紅葉(もみじ)」という曲で初めてコーラスでのハーモニーを体験した。 感動の余り寒気がした。生まれて初めての感覚だった。 |
ビートルズとの出会い |
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ギターとの出会い |
中学時代。世はいわゆるGS、グループ・サウンズの絶頂期。タイガーズ、ブルーコメッツ、スパイダーズ、オックス… 私は余り夢中になれなかった。好きな曲は数曲あったが…。 そして、フォーク・ブーム到来。五つの赤い風船、岡林信康、遠藤健司… 何と言っても、吉田拓郎の存在は大きかった。「結婚しようよ」の大ブレーク。 ギターが欲しい、ギターを弾けるようになりたい。本気で悩んだ。その頃ギターを持っているものは、クラスでも1、2名だった。猫も杓子も状態(?)までには、まだ至っていなかった。 私の父はその頃、高等学校の教諭をしていた。典型的な父親ワンマン型の厳格な家庭だった。ビートルズやGSは不良集団だと本気で思っているような人だったし、私もそう洗脳されかけていた。 ギターが欲しいなんて、簡単に言える状況ではなかった。 そんなある日、友達が持っていた雑誌「平凡」(当時人気があった芸能情報誌)に載っていた○○ギター・アカデミーとかいうクラッシック・ギターの通信教育の宣伝が目に留まった。「これだ!」 私が幼児の頃、その当時としては珍しい電器蓄音機を持っていた位なので、父は音楽愛好家ではあった。 父に相談した数週間後、レコード十枚ほどの教材と、クラッシックではあったが、私はギターを手に入れた。 正直に言うと、当時私はクラッシック・ギターとフォーク・ギターの区別を正確には知らなかったような気がする。 とにかく、レコードを聴きながら教本片手に猛練習した。その頃興味のあった音楽ではなかったが、ギターが弾けるようになりたい一心で、クラッシック奏法の初歩を学んだ。その頃はコードなんて知らなかった。 数週間後、ロマンス(禁じられた遊びの題名で知られている曲。ガロのではありません。念のため…)が弾けるようになった時は嬉しかった。 今考えれば、クラッシック奏法の初歩を学んだことは決して無駄ではなかったのだが、その頃は「ボクのやりたい音楽とは違う…」といつも思っていた。 友人からコードについて教えてもらったのは、そんな思いが募った頃だった。先出の「平凡」や「明星」付録のソング・ブックに書いてあるAmとかCの意味をその時知った。 「好きな曲が弾ける!」 私にとっては、衝撃的だった。 それからは、クラッシックの教材はそっちのけで、コード奏法にはまった。 アルペジオはもちろん、スリー・フィンガー奏法もできるようになった。 自分では結構巧いつもりだったのだが…。 |
H君との出会い |
第一志望の公立高校受験に失敗した私は、不本意ながら私立のT学園高校という男子校に入学した。 その年の夏、必死にバイトして、当時から有名だった神田のカワセ楽器で「ビリー」というオリジナルギターを手に入れていた。確か7万円位だったと思うが、当時の高校生にとってはそれこそ大奮発だった。 その頃弾いていたのは、吉田拓郎、小室等と六文銭、かまやつひろし、そしてBEATLES等であった。 私の高校には付属の中学校があり、そこから上がってきた生徒の中にH君がいた。 彼は軽音楽愛好会(部活とは認められていなかった)に所属しており、時々、学校にギターを抱えてやって来ていた。 H君はギターが巧いと、クラスで専らの評判だった。 実際に彼のプレーを聴いたことはなかったが、そんな彼を私はいつも遠巻きに意識していた。 入学後半年以上経ったある日、思いも掛けず彼から話しかけられた。 「T君(私の名)もギター弾くんだって?」 うれしかった。話してみて、偶然双方の家が近くであることが判明した。早速その週末に彼の家に遊びに行く約束をした。 高校1年生の晩秋だった。 確か朝の9時前には彼の家に着いたように思う。 余談だが、あの当時は日頃から妙に朝早い約束をしたものだった。 愛器を抱え、『巧い、巧いと評判だが、オレのテクで返り討ちにしてやる!』位のことを考えながら彼の家へと向かったような気がする。 H君はおもむろにギターを取り出すと、慣れた手つきでハーモニクス・チューニングを始めた。それ以前に、私はハーモニクス・チューニングが出来る友人に会ったことはなかった。 『こいつ、できる!』私は直感した。 その後、二人で何を弾いただろう…? はっきり覚えているのは、かまやつひろしの「四つ葉のクローバー」と上条恒彦と六文銭の「出発(たびだち)の詩」位だが、はっきり言って彼は巧かった。当時の私など、足元にも及ばなかった。 「四つ葉…」のイントロのリードをまんまレコード通り、彼は弾いた。自分の稚拙さが恥ずかしかった。 しかし彼はショックを受けている私に、こう言ってくれた。 「T君て、唄巧いね!」(爆) 二人のレパートリーが一段落着いた頃、彼がこう言った。 「T君、ガロって知ってる?」 |
GAROとの出会い |
その名前は聞いたことがあった。確かファースト・アルバムが発売されてそれほど時間が経っていない頃だったと思う。もちろん、私は持っていなかった。 「名前は知ってるけど…。」 こう答えた私に、彼は 「ちょっと聴いてみない?」 と言って、私は階下の部屋に案内された。 その部屋に通されて私は驚いた。凄いオーディオ機器の数々だ! 「兄貴のなんだ…」 彼は照れくさそうに言った。 そこは、当時では珍しい完全なオーディオ専用の部屋で、2トラック38のオープンリール・デッキや、数えられないほどのLPレコードが並んでいた。 彼が、その中から1枚のレコードを取り出した。 「これなんだけど…」 そのレコードのジャケットには、青っぽい写真の長髪でベルボトムのジーンズをはいた3人が写っていた。滅茶苦茶格好良かった。 「これがガロか…」私は、ある種の運命的な予感がした。 彼は注意深くカートリッジの針を、ターンテーブルの上で回転しているレコードに落とした。 今まで聴いたことのない程の大音量で、「一人で行くさ」のイントロが始まった。 あの時の感覚、感情をどう表現したらいいのだろう…。 スピーカーのウーハーからバスドラが唸り、トゥイーターからギターの煌めく音が響き、スコーカーからは一糸乱れぬ彼らのハーモニーが目前に飛び出してきた。 小学生の時に感じたあの「寒気」の最強版が私を襲った。 もしH君がそばにいなかったら、私は声を上げて泣いていたかも知れない。 あの時、ガロと私たちは紛れもなく同じ部屋に存在した! LP一枚聞き終わるのがあんなに短く感じた経験は、私の人生で後にも先にもあの時一度きりだ。 最後の「人は生まれて」を聞き終わった後、しばらく呆然としてしまった。 「これ、一緒にやってみない?」 H君が遠慮がちに言った。断る理由など、あるはずもなかった…。 |
「たんぽぽ」との出会い |
「うん、やろう!やろうよ!!」 私もH君と同じ事を考えていた。彼と一緒にやりたかった。その彼からの誘いを断るはずもなかった。 彼が私を誘ってくれた…。彼が私を認めてくれた…。 本当に嬉しかった。 最初に何をやろうかと、話し合った覚えはない。どちらかとも無く、「たんぽぽ」をやることになった。 あのマークの息遣いさえ聞こえる、極端にマイクをオンにした録音… 振幅の大きいビブラート… 不思議な旋律のリード・ギター… 夢の中の世界を漂うようなハーモニー… ハイポジションコードチェンジの時の左手で弦を擦る音… 何もかもが新鮮だった。そして、何もかもが衝撃だった。 その頃から興味があった大好きな画家の一人、マルク・シャガールの世界だと思った。 当時、「たんぽぽ」はそれなりに売れていて、先出の芸能誌別冊ソングブックにコード進行だけは載っていた。 Dmで始まるシンプルなイントロ… でも私たちの知っているDmとは違う音のような気がした。 「何か違うよね?」 私が言うと、彼もうなずいた。 「そうだね…ハイコードかな?」 第五フレット総把のハイコードで試した。でもしっくりこない…。 もう一度レコード聴いた…何遍も何遍も聴いた。 絶対に一弦のAの音が入っている…。でもハイコードじゃない…。 ふと、試しにローコードに加え、小指で一弦の第五フレット(A)を押さえてみた。 「ジャラ〜ン」(!) こ、これだ!! 「それだよ!!」H君は叫んだ! 今思えば単純なことかも知れない。でも当時の私たちにとって、これは画期的な第一歩だった。私たちは、満足感で一杯だった。 その後、ガロのコピーはH君がきっかけを作り、私が解明するという役割分担が明確になった。 イントロが出来れば後は早かった。 自然とリードボーカルは私がとった。 私は、マークの声が出したかった。いや、マークになりたかった。 繊細で、優しくて、それでいて暖かい声… 一生懸命、彼の歌声を再現しようとした。もちろんまだまだだった。が、彼から 「マークに似てるよ!」 と言われた時には、本当に嬉しかった。 彼はギターのリードを弾いた。驚くことに、彼はレコードを数回聴いただけで、それと殆ど同じフレーズでリードを弾いた。 サビの部分も、先程書いた「弦を擦る音」を頼りに、ローポジションコードでないことは分かっていた。そのおかげでハイポジションで同じ音を出すのに、それ程時間は掛からなかった。そればかりでなく、その「弦を擦る音」を効果として出すことさえ意識できた。 そして、「ルン、ラン、ラン、ラー…」のコーラス。 コーラスは、私にとって特別に大切なものだった。 H君と私の声は、声の質が全く違うにも関わらず、きれいなハーモニーを産んだ。 何度か繰り返すうちにそれらしくはなった。が、レコードとは全然違う。 そう… 「もう一人、メンバーがほしいね。」 どちらからともなく、呟いていた。 しかし、私たちのバンドに、もう一人のメンバーが加わるまでは、後数ヶ月待たなければならなかった。 彼の母上からの呼び声で気が付いたら、もう夜の9時を回っていた。 食事も取らずに10時間以上、GAROの世界に浸っていたのだ。何て幸せな世界だったのだろう! 楽しい時が経つのは早いが、あんなに短い10時間を経験したのも初めてだった。 明日の放課後の再開を約束して帰路についた。 自転車のキャリアにギターを縛り付けて、「たんぽぽ」を歌いながら夜道を走った。 肌寒い晩秋の夜風を火照った体に心地よく感じながら、私は確信していた。 『何か新しい世界が始まったんだ』と… |
「暗い部屋」との出会い |
誤解を恐れずに言うと、カラオケの大普及の功罪か、現在のように「一億総歌手」の時代とは違い、当時は歌が巧い友人を捜すのは、大変だったような気がする。 ギターを演奏できる必要はなかったが、歌が巧い、さらに音感がある仲間が欲しかった。 この捜索は、困難を極めた。その間も、二人でほとんど毎日のように練習した。 「たんぽぽ」のコピーは一週間程で低音コーラスパートを除き、ほぼ完成し次の曲は何にするか話し合った。 H君と一緒にGAROをやることになった次の日に早速「GARO1」を手に入れ、一人の時間に擦り減るほど聴いていた私は、「暗い部屋」が気になって仕方がなかった。 不思議な響きのギター1本のイントロ… 歌い出しから爆発するハーモニー… 組曲形式の曲の構成… 突如雰囲気が一変するマークのソロ… 美しいハーモニクスの間奏… その頃から図々しかった私は、「暗い部屋をやろうよ!」と、主張した。 彼は、「う〜ん、ボクも好きなんだけどね…」と、戸惑いながら、 「チューニングが違うらしいんだ…」 と困ったように言った。 愚かな私には、最初意味が分からなかった。 その時まで、ギターのチューニングは唯一だと思っていた。そんな事は、クラッシックギターの教則本には書いてなかった。 「どういうこと、それ?」 訳も分からず、尋ねる私に、彼は、 「変則チューニングって言うらしいんだけど…」と呟くように言うと、6弦をゆるめ始めた。 「???」と不思議そうにただ見つめる私… 6弦をDにチューニングした彼は、普通にDmのローコードで「くらぁーあ〜い部屋で〜」と歌い始めたが 「ね、何だか違うだろ?」と私を見た。 私は、確かに違うけど響きは似てると思った。 「レコード、聴いて見ようよ!」 私たちは、例のオーディオルームにギターを持ち込んだ。 その頃は、今のように「完全スコア」なんて入手不可能だった。たまに、「ガッツ」や「ヤングギター」等のギター雑誌で、短い特集が組まれる程度だった。もちろん、私たちがこのコピーに挑戦している段階では、まだコピースコアなんか無かった。 私たちは、何遍も繰り返し「暗い部屋」を聴いた。 確かB面の1曲目だったので、まだ楽だったが、アナログカートリッジの針を上げては下げるという動作を繰り返すのは大変なことだった。今なら「リピート」のボタン一つだが…。 …ふと、出だしの6弦から1弦に降りていくところが気になった。(!) 「Hさん(もう彼を愛称で呼ぶほど仲良くなっていた)!イントロの始め、繰り返して!」 「あ、そうか!!」 彼も私が考えたことがすぐに分かったようだった。 急いでレコード通りの音に、開放弦をチューニングした。 「ねぇ、これでいいんじゃない?!」 あのイントロは、マークがくれた、私たちへの重大ヒントだったのだ! 私は、すぐに確信した。なぜなら、中学時代に弾いた「禁じられた遊び」のように、一弦だけでメロディーを取り、後は殆ど開放弦のアルペジオ奏法でレコードと同じイントロが弾けたのだから…!! 私は、夜の9時過ぎに彼の家から自宅に電話を入れた。 「今日はH君の家に泊まるから…」 電話の向こうでは、母親が不機嫌そうに言った。 「そういう時は前もって、ちゃんと断ってからにしなさい!今頃電話して…!」 そんな事言ったって、こんな日に帰れるものか(!)、と思ったが、母親に話しても始まらない。 その日は私の人生で、初めて友達の家に、しかも事後承諾で泊まった日になった。 もっとも泊まったとは言っても、一睡もしなかったが…。 その日、徹夜で「暗い部屋」一曲全て、何処を押さえれば同じコードになるか二人で解明した。 マークのサビの部分では一番苦労した。変調するので新しいポジションを探さなければならないからだ。しかし、あの部分が一番の私の聴かせどころなので、自ずと必死になった。 間奏のハーモニクスはH君がすぐにコピーした。彼はギターのひらめきが素晴らしかった。 コーラスのパートは、私が解明した。ハーモニーを探すのだけは自信があった。 何回も何時間も「暗い部屋」一曲だけ、失敗しては最初から、繰り返し練習した。 思えば夜中に、いくらオーディオルームの中とは言え、ギターをかき鳴らし、大声で「トゥルルル、トゥ、トゥ、トゥ、トゥル!…」とやっているのだから、彼のご両親もよく我慢してくれたと思う。 納得できる演奏ができた頃には、長い初冬の夜が白々と明けていた。 |
S君との出会い |
私達は、順調にレパートリーを増やしていった。 先出の2曲に加え「一人で行くさ」「地球はメリーゴーランド」「花の伝説」「小さな恋」… そうしてる間に二人それぞれのパートが、よりはっきりした。 H君はトミー、私はマークのパートを歌い、演奏する。 しかし、二人が目指す「GAROの完全コピー」の為には、絶対にボーカルのパートを歌えるメンバーが必要だった。 レパートリーを増やす合間にも、何人かの友達にそれとなく話し、そのうちの何人かとは、実際に会わせてみたりもしたが… 歌が巧いヤツは皆無だった。 そうこうしている間に半年近く時間が過ぎ去ってしまった。 二人でやるか、妥協してそこそこのヤツと組むしかないのか… 半ば諦めかけたいた頃、H君の友達を通じてS君を紹介されたのは、もう新学年に入った確か5月頃だった。 長身でワイルドな感じの外観とは裏腹に、穏やかな話し方をするヤツだった。 「ガロやってるんだってね。ボクも好きなんだ。ギターは全然弾けないんだけど…」 早速その日の放課後に、H君の自宅に三人が集合した。 正直言って、私もH君もそれ程期待していなかった。今まで何遍も期待を裏切られて来たし、最悪二人でこれからもやっていこうと話し合っていた頃だった。 暗黙のうちのこの「オーディション」は、いつものように「暗い部屋」でやることにした。 「S君、暗い部屋のボーカルのパート歌える?」 尋ねる私に、彼は、 「教えてくれれば何とか…」と、答えた。 そう、いつもそうだ。 今まで、何人もそうやって、何遍一生懸命教えてやっても、すぐに主旋律に釣られて全然違うメロディーを歌い出すんだ。 そして、訳の分からない照れ笑いを浮かべながら、訳の分からない言い訳をするんだ。 で、そのうち飽きてチューニングの狂ったギターで自分の好きな陽水の「東へ西へ」かなんか歌い出すんだ。 ギターが弾けない彼はその心配はないけど、どうせ彼も同類なんだ。 きっとそうだ。 私は、半ば事務的に彼のパート、つまりボーカルのパートを歌った。 彼がいつもの友達と違ったのは、圧倒的な彼の真剣さだった。 彼は私の歌を必死に聴いていた。そして、何回も「ゴメン、もう一回!」と私にリクエストした。 彼の真剣さに引き込まれて私も何度も歌った。数回目から彼も私と一緒に歌い始めた。 「(!)巧い!いい声質を持っている!こいつ、いけるかも!!」 何度も繰り返すうちに、彼は徐々に自分のパートをものにしたようだった。 「じゃあ、そろそろ合わせてみようか?」 H君が頃合いを見計らって言った。 イントロは省略して、歌い出しの四小節前から始めた。 「くらぁーあ〜い部屋でー、ふたぁーあ〜りぃは黙るー…」 これだ!! 僕等が求めてたのは、このハーモニーだ!! S君は目を閉じながら、必死に歌っていた。 私はH君と目が合い、歌いながら互いに頷き合った。 例の寒気の連続が、私を襲っていた。 嬉しくて、そして楽しくて私は歌ってる途中で笑い出し、それが止まらなくなってしまった… 「ゴメン、ゴメン!だって、凄いんだもの…」 演奏を中断され怪訝そうにしている二人に対し、こう言うのがやっとだった。 新しいバンドがようやく誕生した瞬間だった! |
LAMB(ラム)」との出会い |
S君を「発掘」して、やっと3人組になった私たちは、今までの2人のレパートリーに彼のパートを加えるため、時間さえあれば練習に練習を重ねた。 弦を押さえる左手は、擦れてフレットを血で汚してしまった。指紋も薄れ、それが数日するとカチカチになった。 歌いすぎて、喉が痛くなるのも日常茶飯事になった。 思えば、私たちのバンドにとって一番充実していた時期だったかも知れない。 新しい曲の数だけ、新しい感動が待っていた。 「音を楽しむ」… 音楽の言葉の意味を本当に実感できた時期だった。 数週間して、ある程度バンドとしてのサウンドが見えてきた頃、誰からともなく話が出た。 「みんなに聴かせたいね…」 当時、人前で演奏する機会といえば、「文化祭」か「予餞会」位ぐらいしか無かった。 今では中学生さえも自分たちでライブハウスを借り切り、自分たちの演奏を発表しているが、当時はそんな事を考える事すら出来なかった。 「文化祭まであと5ヶ月か…」 随分先の話だと思った。 「あのね…」 H君がいつものように、遠慮がちに切り出した。 「軽音(軽音楽愛好会)の定期コンサートが7月にあるんだけど…」 いつもそうだ。 彼は、大切なことをいつも後で言うんだ。 そんな大事な事、もっと早く言ってくれれば話は早いのに…! 「それだよ、それ!!」 「でもね、軽音に入部しないと…」 「分かってるさ、そんな事!喜んで入部するさ!!」 H君と話す時はいつもこんな感じだった。何だかテンポが少しずれている彼が、ギターを持たせると正確で、しかもイマジネーション溢れるプレイをするのが不思議で仕方がなかった。 私たちは、明日にでも軽音楽愛好会の入部申し込みをしようと決めた。 そのためには、登録するバンド名が必要だった。 これは、本当に楽しい時間だった。みんな、勝手なことを言い合い、お腹が痛くなるくらいに笑った。 「Y(私の名)とその仲間…」とH君。 何だよ、それ!ちっとも格好良くないよ! 「H、T&S…」とS君。 出たよ〜。「C、S、N&Y」のもろパクリじゃないか! 「ロガ!」とバカな私…。 だめだ〜!真面目にやれよ〜!! もちろん「ロガ」は即座に却下されたが、GAROにちなんだグループ名を付けたいとは思った。 誰かが「たんぽぽ!」と言った。 「う〜ん、何だか女の子のフォークグループみたいじゃない?」 でも、たんぽぽか…。私は、たんぽぽの歌詞を想い出していた。 『「小鳥は空を飛び、緑の森へ…』 鳥か、「バード」…、いまいちだなぁ。緑の森…「グリーン・ウッズ」…、ゴルフ場かよ! 『羊は丘を越え、鈴はこだまする』 羊?、「シープ」か…、じゃなければ「マトン」?駄目だ、こりゃ! 待てよ、羊って…、子羊のこと英語で何て言うんだろ? 「Hさん、和英貸して!」 私は急いで辞書を調べた。そこには【lamb】と書いてあった。 「ラムブ〜?」またH君だ…(!) 「違うよ、ラム!発音記号見てよね!bは発音しないの!!climbと一緒!」 「ふ〜ん、ラムね〜、ラムブ、ラムブ…」とまたもやH君。だからキミは…、「ブ」を付けない!! 「うん、いいんじゃない!!」とS君が言ってくれた。この時ほどS君が頼もしく見えたことは無い。 未だに少し不満そうなH君はほっといて、グループ名は「LAMB」に決定した! |
拍手喝采との出会い |
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S.Wさんとの出会い |
軽音定期コンサートの後、私たちは学校内でちょっとした有名人になっていた。 もちろん、「初っぱなに大笑いを取ったコミックバンド」という噂もなくはなかったが、「実力派のGAROコピーバンド」という評価が多かった。 今まで話したこともない同級生や先輩から突然話しかけられたりもした。多くの人に認められたことが、嬉しかった。 私たちは、その後も練習を重ねた。 そして、秋の文化祭…。 私たち「LAMB」は軽音楽愛好会のメインステージとは別に、愛好会公認の専用部屋を獲得することが出来た。 とは言っても教室を改造したモノだったが、これは画期的なことだった。 初日は土曜日にもかかわらず、多くの客が学校を訪れていた。 私の学校は先に述べたように男子校であった。普段は何処を見ても野郎ばかりの集団だ。 しかし、文化祭の期間だけは女の子の数が男子を圧倒する。(!) 周辺には3つの女子校があり、今はどうだか知らないが、当時私の高校は、周辺の女生徒の間でかなり人気があった。 会場の教室に置かれた椅子は30席ぐらいだったろうか…。 私たちのファーストステージが始まる前は、10席ぐらいしか埋まっていなかった。 文化祭で演奏した曲を連記すると、「暗い部屋」「たんぽぽ」「一人で行くさ」「美しすぎて」「小さな恋」「四つ葉のクローバー」「花の伝説」「地球はメリーゴーランド」「水車は唄うけど」「学生街の喫茶店」(S君の強い要望で…)などであった。 確か1曲目は「暗い部屋」をやったような気がする。 講堂のステージとは違い、聴衆と殆ど同じ高さである点、さほど聴衆の数が多くない点、一度修羅場をくぐり抜けている点などからか、殆ど緊張した記憶はない。 イントロの後、コーラスを歌い出したら驚いた! 大して宣伝をしなかったにもかかわらず、私たちの歌を廊下で聴いて来たのか、どんどん、どんどん聴衆が増えていく!!それも殆ど女の子だ!! アッという間に席はいっぱいになり、立ち見が入りきれなくなり、廊下にまで列が出来た。(!) 「美しすぎて」でも懸案のリコーダーの音をひっくり返すこともなかった。 一曲、一曲の聴衆の反応も凄かった! 私たちは、大スターになったような気がした。 一日目はそれこそ、アッという間に終わった。 そして二日目… 私の学校では、彼女がいる生徒達の殆どが先出の周辺3校の女子と付き合っていたが、H君はどこでどう知り合ったのか、東京にあるミッション系女子校、JS学院の生徒と付き合っていた。 会話のテンポは遅いくせに、こういうことだけはしっかりしているヤツだ。 当時私にはガールフレンドと呼べるような子はいなかった。中学時代に好きだったEさんに体よく振られて、1年が過ぎようとしていた。 「あのねT君、ボクの彼女が友達連れて来るってさ!!」 H君が、当日突然そう言った。 またかい! もっと早く言えよぉ〜! 服はどうせ制服だけど、髪型とかもっと気を使ったのに…!! とは思ったが、H君のこのペースには慣れっこになっていたし、大して期待もしていなかった。 それは、午後一番のステージだったと思う。 その時私は「美しすぎて」を歌っていた。 H君が彼女のために空けておいた3つの「予約席」に彼女たちはゆっくり入って来た。 歌いながら、3人の一番後ろから入って来た女の子に私は釘付けになってしまった。 ちっちゃくて、色白で、髪の長い女の子だった。 黒目がちの瞳が大きく、顔が小さな女の子だった。 優しそうで、おとなしそうな女の子だった。 私は目をつぶって歌った。でないと、意識しすぎてしまいそうだったから…。 歌いながら、またあの寒気がやって来た。 それは今までと違い、大きく鼓動を打たせながら私の体を抜けていった。 その子の名前は、S.Wさんといった。 彼女のことを私は一生忘れない… |
大切なものとの出会い PART-1 |
Sちゃん… 当時のように彼女の名前を呼ぶと、今でも胸が痛む… 文化祭の後、自己紹介さえ出来なかった。 名前すら尋ねられなかった。 文化祭は5時過ぎに終わって、私たちには後片付けが残されていた。 彼女たちはみんな東京都に住まいがあったため、私たちの最後の仕事が終わるのを待っている時間的余裕はなかった。 8時までという厳しい門限があったのだ。 あっけないほどあっさりと、彼女たちは帰ってしまった。 彼女たちが帰った後、H君がニコニコしながら私に尋ねた。 「どうだった〜?」 「うん、あのちっちゃな髪の長い子、凄くいい…」 「S子ちゃんっていうんだって…」 「S子ちゃん…」 「どうするぅ〜?」 どうするもこうするも、そう簡単に行くものか! 逆に「どうすればいいの?」と聞きたいくらいだ! 黙っている私にH君は、 「来週、彼女たちのJS学院の文化祭なんだって!」 またキミは〜! もっと早く要点を話してくれよ! 「でね、一緒に行く?」 「行く、行く、行くよ!!」 それからと言うもの、私の心の中からSさんが離れなくなった。 あんな感情は、初めてだった。 そんな私にとって、H君は音楽の仲間以上に、滅茶苦茶大切なキー・パーソンになった。 だって彼しか彼女との橋渡し役はいないのだから… 少々頼りないキューピッドであったが、この際贅沢は言ってられない。 何でも良い。何でも良いから、Sさんの情報が欲しかった。 あの後、H君と彼の彼女は電話で連絡を取り合い、私の気持ちを彼女に伝えてくれたらしい。 数日後、H君から「うまく行くかもよ〜」と「吉報」を受け取った。 余談になるが、今なら即、電話で相手と直接コンタクトを取り、デートの申し込みをして… となるのだろうが、当時の少なくとも私たちは、そんな事とても出来なかった。 東京の東部にあるJS学院の文化祭には午前10時頃には着いただろうか。 女子校に入る…、しかもSさんに再会できる機会だと思うと本当に緊張した。 受付で招待券(H君が彼の彼女から貰っていた。裏に紹介者の名前が書いてある。)を出すと、しばらくしてH君の彼女とSさんが私たちの前に現れた。 この前の私服の時以上に、セーラー服のSさんが眩しかった。 彼女たちは「マジック研究会」とかいうサークルに所属しており、最初にそのブースに案内された。 自然とH君は彼の彼女と、私はSさんと一緒に行動した。 文化祭の開放的な雰囲気も手伝ってか、私とSさんは色々と話すことが出来た。 彼女は私にカード・マジックを披露してくれた。 「まだ下手なの…」と言いながら、小さな手で一生懸命カードをシャッフルする彼女が愛らしかった。 案の定、失敗して「あ、間違えちゃった…、ゴメンナサイ…」と小声で本気で謝る彼女… そして、顔を見合わせて思わず笑ってしまった私につられて二人で笑い合い、そんな彼女を見て、 「何ていい子なんだろう…。この子とお付き合いしたい!」と本気で思った。 その後、彼女の案内で、学校の中の色々なブースを見て回った。 その際に、彼女を語る上で忘れられない出来事がある。 あるブースで真面目に「性」に付いて扱ったブースがあった。 そこは女子高生たちが、彼女たちなりに「性」について真剣に考え、それを発表する場だった。 そのブースでは余り人気がなかったのか呼び込みが凄まじく、私たち二人がその前を通り掛かった時、通せんぼする勢いで私たちを中に導こうとした。 その時、Sさんは下を向きながら、「ゴメンナサイ!」と小声で、しかし強く答えて、呼び込みから急いで逃れた。 もちろん私も後を追った。 心配している私の気持ちを察したのか、彼女は「ああ言うの、私ダメなの…」と私を見上げ微笑んだ。 時間の神様は、絶対に不公平だ! つまらないときはゆっくり時計を回し、楽しい時はアッという間に過ぎ去らせる。 気が付いたら、もう終わりの時間が迫っていた。 別れる少し前に、私はそれこそ清水の舞台から飛び降りる覚悟で彼女に尋ねた。 「今度は、二人で会ってくれませんか?」 「はい…」 少し驚いたように私を見上げ、そしてはにかみなが彼女は言った。 その瞬間、私は世界一の幸せ者になった!! 次の日曜日、私たちはある山手線の駅で待ち合わせの約束をした。 |
大切なものとの出会い PART-2 |
一週間ってこんなに長いものだったのか…? ようやくやって来た次の週末、私は待ち合わの場所に喜び勇んで出掛けた。 待ち合わせ時間は確か午前10時、場所は何故かSさんのJS学院がある山手線K駅のプラットホームだった。 その頃の私の住まいから、およそ1時間半、私は時間の余裕を見て2時間前には家を出た。 K駅には待ち合わせの30分以上前に着いた。 ベンチでゆっくり待っていようと思っていたら… Sさんはもうそこに一人佇んでいた。 「早く着きすぎちゃった…」 私を見付けて駆け寄り、彼女は照れくさそうにそう言った。 Sさんとのお付き合いは本当に楽しかった。 私たちは、毎週末のようにデートを重ねた。 お揃いのスヌーピーのバッチを二人で買い、お互いにプレゼントし合い、お互いが着ているブレザーの胸に付けた。 そんなたわいのないことが、あの頃は本当に幸せだった。 何度目のデートだっただろう… 彼女の家は、山手線池袋駅から、バスで数分の所にあった。 デートの締め括りは、いつも私が池袋駅のバス停まで送っていった。 その日、夕方の池袋駅は人混みで込み合っていた。 小さな彼女は、人の流れに飲み込まれそうだった。 とっさに私は彼女に手を差し出した。 そして彼女もためらわずに私の手を握った。 私は、ドキドキしながら、彼女を掴む手に少し力を入れた。 彼女もそれに応えるように、私の手を握り返してくれた。 この時間が永遠に止まってしまえばいいと思った。 彼女はいつまでも私を姓で「Tさん…」と呼んだ。 私の方は「S子ちゃん…」と、呼ぶようになっていた。 「ねぇS子ちゃん、Tさんて、何だか他人行儀で照れくさいよ。」 彼女は意外なことを言われたような顔をして私を見た。 「Y(私の名)君とかさぁ…」 「Y・・・ク・・・ン・・・?」 彼女は消え入るような声で言った。 顔が見る見る赤くなった。 「あのね、それじゃYさんでもいい?」 彼女はこういう子だった。嘘のように純情な子だった。 その時から彼女は私を「Yさん…」と呼ぶようになった。 今思うと笑ってしまうが、よほどお金がなかったのか、デートの場所はどう言う訳か公園が多かった。 代々木公園、石神井公園、善福寺公園、日比谷公園… 都内の主だった公園には、殆ど行ったような気がする。 今なら、デートマップなどを使ってもっと気の利いた場所にエスコートするのだろうが、当時そんなモノがある訳もなく、この私が洒落た場所なんか知っているはずもなかった。 でも、公園で手を繋ぎ歩きながら、そしてベンチで座りながら話をするだけで、何もいらなかった。 色々なことを話し合った。 学校のこと、友達のこと、勉強のこと、そして進路のこと… それは、忘れもしない、井の頭公園だった。 その日は冷たい雨がしとしと降る、初冬の頃だった。 私たちはひとつの傘で、池を渡る橋を歩いていた。 池のボート乗り場は人影もなく、園内を歩く人も殆ど見られなかった。 これからの進学の話をしていた。 彼女の父上は開業歯科医だった。 そして、彼女は一人っ子であった。 彼女の母上は彼女が小さい頃から、将来は歯医者さんのお嫁さんに…、と、彼女に話していたのだと言う。 彼女は高校を卒業したら、歯科大学か、歯科衛生士の短大に進学すると言った。 私は大いに不満だった。 「そんな、親のいうなりにキミの人生決めちゃうの?」 「・・・・・・・・・・・・」 「歯医者さんと結婚したいの?」 彼女は黙って大きく首を横に振った。 「じゃあ歯科大なんか行かないでよ!」 「そんなこと出来ない…」 「何故さぁ!?」 「だって、だって、お母さん裏切れない…」 私は完全な文系人間で、高校では文化系大学進学コースに所属していた。 理数科目なんか、高二から履修していなかった。 そんな私が、その時とっさに考えてこういった。 「それじゃ、ボクも勉強し直して、キミと同じ歯科大に行くよ! 数学は苦手だけど、後1年以上あるし、頑張ってみるよ! だったらキミと同じ大学に行けるよね!? 他の人と結婚なんかしなくてもいいよね!!?」 彼女は驚いて私を見つめた。 そして、その大きな瞳が潤んだかと思うと、うつむいた。 大粒の涙が、下を向いた彼女の瞳から、ぽとぽととこぼれ落ちた。 彼女は、小さく声をあげて泣き始めた。 私は、思わず興奮してきついことを言い過ぎたために彼女が泣いたのだと思った。 「S子ちゃん…」 私は、心配で、彼女の肩に手を置いた。 その瞬間、彼女は私の胸にしがみついてきた。 私も傘を持ちながら、片手で彼女を抱きしめた。 「お願いだから、泣かないで…。ボク何かいけない事言った?」 彼女は泣きじゃくりながら、首を大きく横に振った。 「ち、違うの…。私…、Yさんが…、Yさんが大好き…」 私は彼女がいとおしくて、いとおしくて、たまらなくなった。 彼女を両手で思いっきり抱きしめた。 持っていた傘が私の手を放れ、ふわりと風に舞った… そんなことはどうでも良かった… サラサラな彼女の長い髪が私のくちびるに触れていた… シャンプーの甘い香りがした… 「S子ちゃん、君を離したくない…」 きつく抱きしめながら私がたまらなくなって呟くと、彼女は顔を上げ、濡れた瞳で私の目を見た… そして… 時間が止まった… 雨に打たれるままに、私たちの周りだけ確かに時間が止まった… |
大切なものとの出会い PART-3 |
その日からSさんは、私の世界中で一番大切な人になった。 さて、歯科大を目指すにはどうしたら良いんだろう。今から学校のコースを変更することが出来るのだろうか…。ボクに理数系科目をもう一度一からやり直す力があるのだろうか…。担任に相談しなくては…。 などと真剣に悩んでいたら、あの日から数日後、帰宅してみると一通の手紙がポストの中に入っていた。 Sさんからだった。長い手紙だった。 また余談になるが、もちろん当時から電話はあったが、今よりもずっと手紙でのやり取りが多かった。 あの頃は、現在当たり前のように、各部屋に1台ずつある子機も無く、玄関や居間に1台きりの電話しかなかった。 当然電話の話し声は、親などの家族にも筒抜けだった。自ずと家族の耳や様子を気にしながらの会話になるため、話し辛いこと、大切なこと、特に恋人同志の連絡には、良く手紙で連絡を取り合ったものだ。 Sさんと私も、お互い数十回も手紙の交換をした。 「この前は、突然泣いたりしてごめんなさい。Yさんの気持ちがとても嬉しかったんです。でも、もう大丈夫です。私は歯科大に行かなくてはなりませんが、Yさんとは決して別れたりしません。別々の進路になっても、ずっとYさんのことが好きです。だから、Yさんは自分で決めた道を歩んで下さい。私のことなんかでマスコミ関係の仕事をしたいというYさんの夢を変えないで…」 そんな内容だった。 私は嬉しかった。 「何があっても彼女と別れることはないんだ。」「ボク達はずっと一緒なんだ。」 そう信じていた… 本気で信じていた… |
大切なものとの出会い PART-4 |
Sさんとは、それからも毎週末のようにデートを重ねた。 この冬、アルバム「GARO3」がリリースされた。 彼女は「涙はいらない」がお気に入りだった。が、私は別れの歌であるそれは怖くて好きになれなかった。 彼女を失うのが、それ程怖かった。 「GARO3」というと、こんなことがあった。 相変わらず、デートの場所は公園が多かった。 外は寒かったが、二人でいれば寒さなんて感じなかった。 確か、日比谷公園へ行った帰りだった。 私たちは、銀座のヤマハ楽器店に行った。 レコードをそれとなく見たり、ピアノを弾いたり、そして、ギター売り場に… また余談だが、当時の楽器店は、もちろん高価なものを除き、現在よりも気軽に、殆ど自由に試奏させてくれたように思う。 私は適当な一本のギターをピックアップして、用意されている試奏用の椅子に座った。 Sさんも同じ小さな椅子にくっついて隣りに座った。 コピーしたばかりの「GARO3」に入っているラブソング、「一人にしないよ」と「愛の言葉」をギターを弾きながら彼女のためだけに歌った。 もちろん周りに多少人はいたが、そんなことは二人にとって…、少なくとも私には全く気にならなかった。 小声で歌うと高音が出ないので、「愛の言葉」はかなり大きな歌声になってしまった。 まだ希にキスを交わすだけの関係の二人だったが、歌詞の意味を噛み締めて一生懸命歌った。 「見てごらん、嘘なんか言ってないだろう… 僕の愛は本当さ…」 歌い終わったら、彼女はボクの肩に頭を乗せてきて、ささやいた。 「・・・・・・・・・・ありがとう・・・・・・・・・」 彼女は涙を流していた。 二人の世界… その時、そこは二人だけの世界だった… |
LAMBとの別れ PART-1 |
新年を迎え、3年生を目前にして周囲も受験へ向けて慌ただしくなってきた頃、私たちメンバー3人は放課後の教室で真剣に話をしていた。 「これからどうする…」 「もちろん大学に行くさ!」 私たちの学校は、その頃から県下有数の進学校で、ほぼ100%が大学に進学していた。 「LAMBは…?」 「・・・・・・・・・・」 今思い返すと恥ずかしいのだが、あの文化祭でのステージ以降、何とLAMBには周囲の女子校を中心にファン・クラブが結成されていた。 もちろん、百人にも満たない小さなクラブだったが、彼女たちのためにもこのままで終わらすのは申し訳ない気持ちを皆が持っていた。 でも、バンドとして活動しながら大学受験をクリアできるほど甘くはないこともみんな知っていた。 「解散することは仕方がないけど、その前に何かやりたいね。」 「うん、解散記念のコンサートか何かやろうか!」 「さよならコンサート!!」 「そうだね!それでボク達も踏ん切りを付けて受験勉強に専念しよう!」 高3になる直前の最後の春休みをめどに、私たちは、「LAMBーさよならコンサート」を開催することに決めた。 |
To Be Continued...... |
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