PBFD…
その恐ろしい病気の名前を知ったのは、りこを迎えた前後(1998年暮れ)に見付けた、B&H ROOMとジャングルトークという、HPでした。
このジャングルトークで紹介されていた「らいちちゃん」というコバタンがPBFDを患い、闘病していました。
(らいちちゃんも昨年暮れに星になりました… 合掌)
闘病記をそれこそ貪るように読みました。
『うちのりこがこの病気に罹ったら…』
夜独りで怖くなり、眠れないこともありました。
『りこがいなくなる… ボクの手から放れていく…』
そんな、強迫観念にも似た思いに駆られ、独りで涙したこともありました。
その後、ネットで知った、有名な優良鳥類販売店、CAP!のページに、「マメちゃん」と言う、マメコバタン(コバタンの亜種)の闘病記を見付け、読ませていただき、涙が止まりませんでした。
鳥を販売なさっているショップとしては、ともすればイメージダウンになりかねない、「自分の店にPBFDの子がいる」という事実を堂々とHP上で公表し、鳥を心から愛し、鳥たちのためにどうしてあげられるかを真摯に考えていらっしゃる松本店長の姿勢に心に打たれました。
その後、何度かDMでも遣り取りもさせていただき、この人なら、このショップなら信頼できる…
心からそう思いました。
(りこはCAP!から迎えたのではありません…)
でも、まさかうちのりこが…
正直に告白すれば、まだこの時点でも、結局私にとっては他人事だったのかも知れません。
りこの写真のコーナーにも記したように、1999年の梅雨、りこの羽が少しずつ抜け始めました。
最初のトヤ(換羽)が来ました。
梅雨時にトヤが来るのは珍しくないことだと、HP上でも情報を得ていました。
その時の羽が、上部タイトル下の写真です。
ご覧のように、抜けた部分の羽軸の付け根は黒くなく、きれいでした。
これは愚かにも「PBFDではない」証明に…と、保管しておいたものです。
私がその頃得たいくつかの情報に寄れば、PBFDの症状の特徴として…
1 脂粉が少ない
2 抜けた羽軸の先が血液凝固により黒くなる
3 嘴が徒長する
とありました。
1は当てはまっていました。
ネットの情報では、白色オウム系の鳥たちはちょっと撫でてやっても、手が白くなるくらい脂粉が多いということでしたが、りこはいくら撫でてあげても、殆ど手に付きませんでした。
そして、迎えた当時から、羽の光沢がいまいちで、なんとなく薄汚れて見えました。
『ショップで、汚れた手で客に触られたのかな…』
当初はそれくらいにしか思っていませんでしたが…
2、3に関しては、全く当てはまっていませんでした。
(3に関しては、まもなく… 頼みの綱の2も、末期には黒い血液凝固を見ることになるのですが…)
それだけを心の拠り所として、『この子は大丈夫だ… PBFDじゃないんだ…』と確信していました。
いえ、確信するようにしていました。
その年(1999年)の夏、私は家族と一週間ほどの旅行のため、ネット上で知り合い、偶然近くにお住まいの大型インコを複数飼っていらっしゃるお方に、りこをお預かりして戴くことにしました。
彼女とはその以前ささやかな「鳥さんオフ」を彼女のお宅でしたことがあり、りことは「面識」がありました。
再会した時のりこは、相当変わっていたのでしょう。
開口一番、「あれ?りこちゃんどうしたの?」とお尋ねになりました。
私たちは毎日見ているので、それほど変わったようにも見えませんでしたが、確かに羽が抜けた部分が目立ち、「薄く」なっている状況ではありました。
いくつか新しい羽が筆毛として生えては来るのですが、完全に成長する前に、抜けたりすることも度々でした。
でも、あの「特徴2」のように、黒くはなっていませんでしたし、地肌が見えてしまうほどでもありませんでした。
彼女に預かっていただいている間に、彼女が飼っていらっしゃるオオハナインコと一緒に、りこも彼女のかかりつけの埼玉にある鳥の病院に、連れて行っていただきました。
それ以前は半年以上前、りこを迎えた際にバードハウスの真田先生に健康診断をしていただいたきりでした。
『もしかしたらPBFDと診断されるかも…』
ドキドキしていた私は電話で彼女から、「心因性のストレスから来るものの疑いが強いとのことですよ。」と言われ、ホッとしたものでした。
その際、アロマテラピーなどを含む、いくつかのお薬を戴き、暫く投薬をしました。
劇的に改善はされませんでしたが、何となく快方へ向かった気がしました。
それから2ヶ月後、海外旅行のために再び彼女に預かっていただくため再会し、りこをご覧になった時は『だいぶ良いんじゃない?』と仰っていました。
1999年も終わり、2000年を迎える頃にも、りこはそのままでした。
新しい羽が生えて来ては落ちて…を繰り返すばかりでした。
でも、とても明るく、元気でした。
喋りまくって、甘えまくって、ご飯も一杯食べて…
『こんな元気な子がPBFDのはずがない…』
彼女を胸に抱き、頭を撫でながら、そう思っていました… いえ…
そう「思うように」していました。 (2001/3/16)
春が来て…
りこの嘴に変化が起きてきました。
上嘴が伸びるのです。
ペレット(この頃までには完全にペレット食に切り替えました)を砕くのも不自由そうでしたので、注意深く嘴をカットしてあげました。その後、この作業が1ヶ月に一度は必要になるくらい、伸び方も早くなってきました。
嘴のカットを彼女はとても嫌がりました。普段は上げない地声で鳴きました。
でも、切って上げないと巧く食べることが出来ません。
非常に、デリケートで辛い作業でしたが、心を鬼にして敢行しました。
後から知ったのですが、嘴のカットは鳥にかなりの肉体的、そして精神的苦痛を与えるようです。
よく頑張ってくれたと思います。
この頃、私もやっと認めざるを得ない状況であることに気が付いてきました。
彼女がPBFDである疑いが、かなり強いことを…
そして夏…
羽は一層少なくなり、元から生えていた健康そうなものも波打つような形状に変わってきました。
そして…
抜けた後新しく生えてきた彼女の可愛さを特徴付ける黄色い冠羽がちょっと頭を撫でてあげた拍子に抜け落ちました。
それを見て、愕然としました…
軸の根元が細く衰えて、その根元に…
黒い血液の凝固を見たのです。
前出の真田先生のところへ、りこを連れて行きました。
結論は分かっていました。
『そう宣告されたら、何が出来るのだろう…』
病院に向かう車の中、妻が運転し、りこを肩に乗せ、背中を撫でながらずっと考えていました。
真田先生の病院は、診察を待つ間、診察室に一度に3〜4名ほどの飼い主さんが入るシステムになっています。
待っている方は、前の方の診察風景を見ることが出来ます。
それは、とても勉強になり、また、スムーズに交代が出来るため、普段は有り難いシステムなのですが…
私はりこの姿を他の人に、絶対に見せたくありませんでした。
好奇や奇異の目に晒されるのが、たまりませんでした。
また、PBFDを知っている方なら、自分の愛鳥に移りはしないかと嫌がるだろうとも思いました。
『うちのりこが、他の人に敬遠されるなんて… こんなに可愛くて、こんなにいい子なのに…』
たまらなく、やるせない気持ちになりました。
そこで、一番最後をねらい、私独りで待合室に入り、私の前の方の診察が終わった直後に、りこと共に車内で待機していた妻を呼び寄せました。
先生は、丁寧に診て下さいました。
そして仰いました。
「残念ですが、ほぼ間違いなくPBFDでしょう。」
と… とてもお辛そうに…
その宣告を聞く直前まで、『もしかしたら違うかも知れない…』と、現実を直視できずにいた、弱虫の最後の望みは、当然の如く絶ち切られたのです。
先生はこう続けました。
「確定検査も可能ですが、どうしますか…」
私は確認しました。
「そうだと確定しても、治療法はないんですよね?治らないんですよね?」
先生は頷きました。
私は即座に考えました。
りこの病気がうちにいるオカメたちに感染することを恐れました。
「もし確定したのなら、オカメ達とは隔離しなくてはなりませんか?」
先生はこう言いました。
「その必要はありません。すでにオカメちゃんたちには抗体が出来ています。彼らが今後PBFDに感染することは、まずあり得ません。」
私は即答しました。
「検査の必要はございません。」
先生は「お力になれなくてごめんなさい…」と謝られました。
帰り際にお礼を申し上げると、深々とお辞儀をされました。
暖かい先生のお心に、こらえていた涙がどっと溢れてきました…
車に戻り、りこをキャリアから出し、胸に抱きました。
ボロボロと涙がこぼれてきました。
愛おしくて、愛おしくて、たまらなくなりました。
妻も運転をしながら泣いていました。
何も話せませんでした。
その時…
「りこぉ〜!」
そんな私を見上げて、りこが…
死の宣告を受けた、りこが…
私たちを励ますように…
彼女を抱きしめて、私は決心しました。
『りこは、りこなんだ… 今まで通り、りこに接していこう…
隔離なんかしないで、りこの一番好きな場所にいさせてあげよう。
奇跡が起きるかも知れないじゃないか。』
彼女はまた、あの可愛い声で…
まん丸の目で私の目を見つめて…
「りこちゃんよぉ〜!」と叫んでくれました。 (2001/3/17)
「死の宣告」を受けてから、りこの病気の進行が急激に早くなった気がします。
数少なかった冠羽は抜け落ちては生えるを繰り返し、いつしか全く無くなってしまいました。
上嘴は徒長し、先が壊死し、欠けてしまいました。
欠けた断面は、椰子の実のような繊維質の組織が露わになってしまいました。
下嘴も徒長し、正常時には受け皿のようになっていた形状の、両側の「受け」の部分が壊死してしまい、ただの「へら」の様に変形してしまいました。
カットして噛み合わせを治してあげることも不可能になってしまい、無駄な苦痛を与える必要もなくなってしまいました。
そして、いつしか嘴の付け根の筋肉部に黒い腫瘍ができ、どんどん肥大していきました。
当然、彼女はそれをとても気にしていました。
でも、触ると痛いのか、自分でも甘んじてその状況を受け入れるしかないようでした。
嘴を閉じることは完全に不可能になり、いつも半開きの状況でした。
嘴を開けてみると、腫瘍が口の奥にまで浸食し、半分塞いでいるような状態でした。
それでも彼女は元気でした。
彼女はイチゴが好きでした。
冬、イチゴが出回ると直ぐに彼女に与えました。
いつもなら手(脚ですが…)に取って、美味しそうに囓るように食べるのですが、嘴が不自由で思うようになりません。
『なぜ…? なぜわたし、うまく食べられないの…?』と私たちに尋ねてるようで、不憫でなりませんでした。
「受け皿」を失った嘴からは、唾液(と呼んで良いのでしょうか…)が垂れ流しになりました。
妻が細かく切ってひとつひとつ与えていました。
彼女は、それでも一生懸命飲み込むように食べていました。
彼女はナッツン・ナゲットと言う「おこし」状のペレットが大好きでした。
それも、自分で砕く事は不可能になっていました。
細かく砕いてあげ、餌入れに入れてあげると、一粒一粒ずつ、ゆっくりと流し込むように飲み込んでいました。
今年(2001年)に入り、昼間眠っていることが極端に多くなりました。
それでも、私たちの姿を認めると、「りこちゃ〜ん」と訴えるように喋ってくれました。
身体がとても辛かったでしょうに、外に出して欲しがるポーズ(扉の前で右往左往する動作)をしたりもしてくれました。
羽毛が不完全なので、暖房には気を遣いました。
エアコンは、25℃に設定し、24時間入れっぱなしにしていました。
さらにクリップライトを止まり木の脇に外から付け、いつも点灯しておきました。
これが、余計彼女を苦しめる結果になってしまったのですが…
これも、PBFDの症状ですが、彼女はしょっちゅう、身体を震えさせていました。
そして、自分でも寒いと感じていたのでしょう…
いつも、そのライトのすぐ脇に寄り添うようにして、顔を背中に埋め、眠っていました。
普通の鳥なら、暑かったらライトから遠ざかることが出来ます。
が…彼女は、普通ではありませんでした。
歩き辛そうにしているのでよく見たら、彼女の右脚の付け根からお腹にかけてケロイド状に炎症をおこしていました。
火傷だったのです。
神経も麻痺していたのでしょう…
長い間、同じところが熱せられ、低温火傷をおこしたのだと思われます。
すぐにライトを下げて角度を付け、広く当たるようにしました。
また、患部にマキロンを塗布しました。
幸いにも、数日で普通に歩けるようになり、患部にはかさぶたが形成されました。
それでも、亡くなるまで完治することはありませんでしたが…
亡くなる寸前まで、妻が殆ど面倒を見ていました。
嘴をカットしていたのも、火傷を発見したのも彼女です。
この場を借りて、彼女は本当に頑張ってくれたと感謝をしたいと思います。
私は卑怯です…
可哀想で、見てられませんでした。
亡くなる10日ほど前くらいから、餌の減りが極端に少なくなりました。
妻は一粒ずつ手につまんで、彼女の口元まで運んであげて、飲み込ませていました。
彼女もそうすると、一生懸命食べていました。
二人の間には、人間の親子にも負けないくらいの「愛」と「信頼」が確実に存在していました。
そして、亡くなる数時間前…
仕事柄、いつものように夜遅い夕食を終え、いつものように妻が彼女に餌を食べさせ、あの日は何故か私も彼女を手に乗せました。
その頃では、妻と違って、私は彼女を手に乗せる回数がめっきり減っていました。
昼間、彼女が殆ど眠ってることが多いこと…
そして…
正直に告白すれば、最近迎えたシナモン・パール・ホワイトフェイス・オカメの子を触れるのに、手を汚すのが怖かった…
ごめんなさい… りこ…
彼女を久しぶりに手に乗せ、愕然としました…
軽すぎる…
それは、可哀想なくらい、軽く感じました。
怖くて体重は量れませんでした。
いつものように、彼女をケージに戻し、私たちが寝室へ向かう前…
りこは、いつになく大きな声で私たちに話し掛けてきました。
「りこぉ! りこちゃん!」
「りここぉ〜!」
これは間違いなく、彼女の最後の…それこそ必死のお別れの挨拶だったのです…
そんなことにも気付かない私たちは、いつも言うように
「はい、おやすみね…」と返答し、リビングの明かりを消したのでした…
寝室で、寝る前の日課になっているメールチェックと返信などを済ませ、奇しくも自分のHPに「BIRD」のコーナーのトップを作成するために、りこの過去の写真を最初から一枚一枚見直しました。
『りこの写真が増えることはもうないんだろうな…』
漠然とですが、そう考えたりしていました。
その後、これも日課なのですが、パソコンの灯を落とし、就寝する前いつもするように、リビングに行き、全ての鳥たちの様子を見に行きました。
入って直ぐ、正面にりこのケージがテーブル越しに見えます。
ケージの下はテーブルの陰になってしまい、上半分しか視界に入りません。
彼女は、いつもその上半分にある餌入れの上で眠っていました。
が…
あの日は、いつもの場所にいませんでした。
胸騒ぎがして、「りこ!」と叫びながらケージに近付くと…
ケージの下にうずくまっているりこが目に飛び込んできました。
「りこ!!」
慌てて声を掛けて、ケージに手を入れました。
直ぐに理解しました。
彼女がもう逝ってしまったことを…
ぴくりとも動かないどころか、死後硬直さえ始まっていました。 (2001/3/22)
冷たくなったりこを抱き抱え、大声で泣きました。
何度も何度も彼女の名前を叫びながら…
彼女をこんな目に遭わせる「PBFD」が許せませんでした。
どんな意味が… 何の権利があって、罪もない彼女の命を奪うのか…
神は、どうして彼女に、こんな酷い運命を与えたのか…
やり場のない、怒り… 哀しみ…
りこは頑張りました…
ぼろぼろの身体になっても、最期まで「生」への執着を捨てませんでした。
その壮絶な戦いを労いながら、私たちが将来入る墓地の玉砂利を掻き分け、穴を掘り、彼女と彼女が大好きだった最初に与えた子犬用のおもちゃ、そして、これも大好物だったナッツン・ナゲットと一緒に埋葬しました。
人間のお墓と同じ場所に…と、顔をしかめる方もいらっしゃるかも知れません。
しかし、私たちにとって、彼女を含める鳥たちは、まさしく「家族」なのです。
いえ、種を越えた部分で繋がっている意味では、人間の家族以上かも知れません。
とにかく、来世であったとしても、彼女と再会したいのです。
彼女のあの仕草、声、体温…
絶対にもう一度、実感したいのです…
土をかけ、玉砂利を元に戻し、花を手向けました。
彼女の元気だった頃の冠羽と同じ色と形の黄色い菊の花を…
PBFDの子たちは、静かで優しい子が多いそうです。
私の友人が、りこの死を知り、こう仰いました。
『りこちゃんは、自分の運命が分かってたんじゃないかな…
だから、ごまさんたちに愛されたくて、一生懸命だったんじゃないかな…
短い一生だから、その分、他の子たちよりも愛されようと…』
愛と勇気をくれたのは、彼女の方です。
りこ…
ありがとう。
ほんとうに、お疲れさまでした。
苦痛から開放されて、ゆっくり休んでね。
そして、また…
また、いつか逢える日が来ることを信じています。
りこ…
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